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探訪記

富山旅行記です。

越中富山 佐々成政特別展と薬の旅(2013年10月):2日目

いよいよ旅のメイン、「特別展 戦国越中の覇者 佐々成政」へ。
歴史に名が登場するところから、その生涯を閉じるまで順を追って展示されていました。さらに今回は没後についても取り上げられており、興味深かったです。
特別展 戦国越中の覇者 佐々成政

この日はあいにくの天気でしたが、学芸員さんによる説明会にも参加でき、充実した時間を過ごすことができました。

「旅行記」とは言いつつ、2日目は特別展の会場である富山市郷土博物館に籠っていたので、ここでは今回の特別展で見聞きしたことや感想などを書きたいと思います。

佐々成政は戦国期には有名だった?

私は東京在住ですが、周囲に「佐々成政」を知る人は残念ながらほとんどいません。
聞いたところによると、知っている人でも、「秀吉嫌い」とか「愛人殺し」とか、あまり良いイメージを持っていない人も少なからずいるようです。

しかしながら、豊臣秀吉が成政に切腹を命じた書状の中には、人々が成政を「武者の覚え」――つまり「武士の鑑」と評していたと書かれており、だから重用したともありました。

また、江戸時代中期に書かれた『常山紀談』にはこんな話が載っていました。
蒲生氏郷が成政の馬印である三階管笠の使用を秀吉に願い出たところ、武勇で名を馳せた成政の馬印だから簡単には認められない。武功次第であると言われました。
小田原城攻めで活躍した氏郷はようやく三階管笠の馬印の使用が認められたそうです。

ルイス・フロイスの『日本史』にも成政の潔い最期の様子が書かれるなど、現代の知名度の低さが信じられないくらい有名人だったと考えられます。

佐々成政を「悪」のイメージにしたのは誰だ!?

先に書いたように、佐々成政は「武士の鑑」と評された人でした。
越中(富山県)においては治水事業も行い、政治家としての能力も高かったのではないかと思われます。

にもかかわらず、現代では知名度もさることながら、悪いイメージも付いて回っています。

これについては、成政の後に越中に入った前田家が国を統治しやすくするために成政の悪い噂を流したという説がありました。
私もずっとそう思ってきたのですが、今回の特別展でちょっと違うのかも・・・と思い直しました。

まず、理由のひとつは先の『常山紀談』です。
これが書かれたのが江戸時代中期なので、その頃までは武勇の誉れ高い武士と評されていたと考えられます。

加えて、今回展示されていた「納枡(おさめます)」。
1615年のもので、年貢納入に使われていた枡です。
これに成政の名前と花押(サインみたいなもの)が彫り込まれているのですが、どういうわけか花押は前田利長のもので、しかも彼はすでにこの世を去っていました。
そのため、この納枡については、恐らく後世に権威付けのために成政の名が利用されたのだろうということです。
納枡

そうなると、前田家が成政の悪い噂を立てたとは考えにくいわけです。
成政の権威を失墜させることが目的であれば、そんな枡は没収されるでしょうし、何より誰もわざわざ成政の名を彫ったりしません。

そもそも「早百合伝説」や「黒百合伝説」(ご存知ない場合は当サイトの「逸話」をご覧くださいね)が書かれたのは江戸時代後期の『絵本太閤記』という書物です。
そして、この『絵本太閤記』を基にした版画や歌舞伎が大衆娯楽向けに世に出回りました。
つまり、成政の負のイメージは、この『絵本太閤記』の刊行を機に広まったのではないかということなのです。

【番外編】佐々成政、恋を詠む!

今回、佐々成政直筆の恋の和歌も展示されていました。
ただ、専門家に言わせると、ストレートすぎて和歌としてはイマイチだとか・・・。
それよりも特筆すべきは、特別展が始まった頃は古写真しかなかったのが、その後現物と思われる和歌が発見され、追加展示されていたこと! 貴重な品を見ることができてラッキーでした。

最後に

今回の旅であらためて歴史っておもしろいと思いました。
過去のことだから変わらないと油断していたら、生きているみたいに変わっていくんですね。
佐々成政については、さらさら越えのルートなども含め、まだ分からないこともたくさんあるようです。
でも、専門の方々が研究を重ねてくださっているので、きっとまた新たな発見を見聞きできると思います。楽しみです。
私はこれを機に、当サイトについて見直してみることにします。
きっと変わっていることもあるはず・・・ですね!

★今回の特別展は2013年11月10日まで開催しています。興味がある方はぜひ足を運んでみてください!★

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