| ■早百合伝説 佐々成政が越中にいる間、早百合という名の愛妾がいました。成政が一目で見初め、城に呼んだそうです。天正12年(1584)には早百合が懐妊し、成政を非常に喜ばせました。そしてこの年の11月13日、成政と数人の従者は徳川家康に会うために越中を出発します。そうです。さらさら越えです。ところがこの時、従者の一人である竹沢熊四郎が、病気のため富山城に残ったそうです。 ところで、成政には早百合の他に三人の妾がいました。その三人の妾は早百合への嫉妬から、「早百合は竹沢熊四郎と姦通し、お腹の子供も成政の子供ではない」と言いふらしていました。そのうちにその噂話は、浜松から戻ってきた成政の耳にも入りました。 成政も最初はただの噂だと信じませんでしたが、ある時、早百合の寝所の戸口で小さな錦の匂い袋が落ちているのを拾います。茶坊主に誰のものかと聞くと、竹沢熊四朗のものであることが判明、成政は激怒しました。しかし、これもやはり妾たちの陰謀だったと言われています。 そのことを知らない成政は、まず竹沢熊四朗を呼び、斬殺しました。ついで、早百合の黒髪を引っ張り、神通川の川沿いまで走り出て、髪を逆手に取り宙に引き上げ、斬殺しました。また、早百合の一族18人全ての首をはねさせ、獄門に磔にしたそうです。早百合は死ぬとき、罵り叫び、歯をかみ砕き、血の涙を流し、美しかったその顔は悪相に変わり、 『己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし』 と叫んだそうです。見ていた者は目を覆い、聞いていた者は毛髪が動くほどの、光景だったと『絵本太閤記』にはあります。 今でも、神通川の辺りには、風雨の夜は女の首と鬼火が出るという話があり、それを 「ぶらり火」と言うそうです。そして、そこには早百合が吊されたと言われる一本榎があり(戦争で焼けてしまったため、現在は二代目の榎)、この伝説をより信憑性の強いものにしていたようです。また、『絵本太閤記』では、天正16年に成政が尼崎で切腹したのも、早百合の怨恨のためであると語っています。 この伝説は成政が越中を去った後、前田家がより国を治めやすくするための、創られた伝説ではないかとも言われています。実際、一族残らず磔にされたとありますが、成政の子孫の方々は健在されています。 |
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| ■埋蔵金伝説 「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」 この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌だそうです。 佐々成政はおびただしい軍用金を立山の山中に埋蔵した、と言われています。越中の伝説では、成政がさらさら越えをしたとき、途中、長く苦しい旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中には、軍用金もあったとされています。そして、今の「内蔵介平」がそれらを埋めた場所であるとされています。 しかし、この里歌にもあるように、鍬崎山に埋蔵金があるとも考えられています。他にも、針の木峠付近説や九州説もありますが、様々な文献から考えてやはり鍬崎山が有力ではないかと言われています。 ところで話変わって、富山県大山町では、毎年、この埋蔵金伝説にちなんだお祭りを開催しています。遊園地の中の緩やかな山地を使って、埋蔵金探しをやるのです。もちろん、本当の埋蔵金を探すのではなく、あらかじめ紙で作られた小判を土半分くらい埋め、それを探すのです。小判を見つけると、それは地元の商店街で使用できる商品券やおかし、金一封などに変わります。ただ、探すのも楽ではないです。なんせ夏の暑い盛り、しかも丘陵ですから。だけど、とても楽しいお祭りです。地元の方に、佐々成政についての話を伺うこともできました。それに、こうすることによって、佐々成政という一人の人間が語り継がれていくことは、とても良いことだと思います。 |
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| ■一夜泊稲荷神社伝説 越中に悪疫が流行したとき、佐々成政が一夜泊稲荷神社の神に祈ったところ、その願いが天に通じたのか流行病は少しずつ治まっていったそうです。 それ以来、成政は一夜泊の神を厚く信仰するようになり、民衆にも紹介し、さらさら越えの際にも祈願していったそうです。それが、後世になっていつの間にか、この神社の十界曼陀羅に成政の名が、「成政大明神」として記されるようになっていたと言われています。 |
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| ■織田信長に諫言 天正2年元旦。織田信長は功臣を集めた宴の席で「珍奇の肴」を披露しました。 それは朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の首でした。3人の頭蓋骨に薄濃(はくだみ)を施した盃です。数年にわたり、浅井・朝倉には苦戦を強いられてきたため、信長なりの祝杯だったようです。 宴が終わり、諸将は退出していきましたが、成政はひとり残り、信長に次のように言ったそうです。 「古書によれば、王者は四海をもって家となし、兆民をもって子となすとあります。 誰か一人でもあなたに服しない者がありましたら、あなたの徳がいまだ至らないことを知るべきです。どうか、不善を反省し、今以上の徳を有してください。」 (「古書に云く王者四海を以て家となし億兆を子と為す、然り而して一夫服せざる者あれば徳化あまねく浴からざるを知るべし請う不善を省み以て徳誼を有せ」『後漢書』) 信長はそのとおりであると大いに喜び、成政を寝室へと引き入れ、政務を論じ合ったそうです。 あの勘気の強いといわれている信長に諫言すれば、下手をしたら成敗されかねません。成政は、たとえ信長の勘気を被っても、成敗されたとしても、主君が人の道を外すことをやり過ごすことができなかったのではないでしょうか。 |
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| ■成政と学問 「織田信長に諫言」でも記したように、成政は『後漢書』等に精通した博学の人であったといいます。 成政が師事していたのは、尾張比良城の客分であった学者の千田吟風であったそうです。成政は彼に古今の名将の武功や言行、兵法など幅広く学んでいたといいます。 ところがある日、成政は学問をさぼり遊びふけっていました。それを見た吟風は、古の名将の話をして真面目に学ぶようにと諭しました。 しかし成政は、「そのようなことが本当にあったのか疑わしい」と口答えをしました。それを聞いた吟風は怒りもせず、次のように言ったそうです。 「古将の言行に疑いをもつのなら、なぜ、自らの無益な遊びにも疑いをもたないのか」 その言葉に成政は反省し、以後、真面目に学問に取り組むようになったといいます。 (『古事類苑』大平将士美談) |
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| ■黒百合伝説 『絵本太閤記』には、佐々成政が豊臣秀吉に切腹させられたのは、「黒百合の献上」をめぐってのことであると書かれています。 黒百合の献上によって、秀吉の正室・寧々と側室・淀殿との争いに巻き込まれたのだと。そして、その黒百合こそは早百合の化身であると。(早百合伝説参照) 秀吉に降伏し、大阪城に出仕する身となった成政でしたが、秀吉の正室・寧々の推挙により肥後の国主となることができました。成政はお礼として、白山(石川県)大汝峰(2,684メートル)の南方、千蛇ヶ池に咲く黒百合を献上することにしました。黒百合は、黒く可憐で、珍しい花だったそうです。 寧々は喜び、側室・淀殿に見せて自慢しようと考えました。そこで、早速茶会を催し、その席で黒百合を披露することに決め、千利休の娘・綾に活けさせました。茶会当日、寧々は得意げに銀の花入れに活けた黒百合を披露し、淀殿もそれをほめそやしました。 ところが、偶然にもその話が淀殿に漏れてしまっていたのです。淀殿は負けじと、使者を使って黒百合をどっさりと取り寄せました。そして、茶会が終わって三日後の花摘み供養の会のときに事件はおきました。 淀殿は竹筒に、ツツジ等の卑しい花に混ぜて、黒百合を活け捨てにしたのです。しかも、黒百合は寧々のものよりも色が濃く、活き活きとしていたそうです。 寧々は激しい屈辱を感じ、成政を憎み、綾を疑い、秀吉にも様々な告げ口をしたそうです。そのため、成政は切腹に追い込まれたというのです。ちなみに、花を活けた綾の父・千利休も切腹させられています。 (『絵本太閤記』 『佐々成政<悲運の知将の実像>』) |
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