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佐々成政に関する逸話

佐々成政に関する話や伝説を集めました。

早百合伝説埋蔵金伝説信長への諫言成政と学問黒百合伝説

早百合伝説

越中在任中、佐々成政には早百合という名の愛妾がいました。

天正12年(1584)には早百合が懐妊し、成政はたいそう喜びました。
そしてこの年の冬、成政と数人の従者は徳川家康に会うために越中を出発します。世に言うさらさら越えです。ところがこの時、従者の一人である竹沢熊四郎が病気のため富山城に残ることになりました。

成政には早百合の他にも数人の側室がいました。彼女達は一人寵愛を受ける早百合への嫉妬から、「早百合は竹沢熊四郎と姦通し、お腹の子供も成政の子供ではない」と言いふらしていました。そのうちにその噂話は、浜松から戻ってきた成政の耳にも入りました。

成政も最初はただの噂だと信じませんでしたが、ある時、早百合の寝所の戸口で小さな錦の匂い袋が落ちているのを拾います。茶坊主に誰のものかと聞くと、竹沢熊四朗のものであることが判明、成政は激怒しました。しかし、これも側室たちの陰謀だったと言われています。
そのことを知らない成政は、まず竹沢熊四朗を呼び、斬殺しました。ついで、早百合の黒髪を引っ張り、神通川の川沿いまで走り出て、髪を逆手に取り宙に引き上げ、斬殺しました。また、早百合の一族18人全ての首をはねさせ、獄門に磔にしたそうです。早百合は死ぬとき、罵り叫び、歯をかみ砕き、血の涙を流し、美しかったその顔は悪相に変わり、
「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」
と叫んだそうです。見ていた者は目を覆い、聞いていた者は毛髪が動くほどの光景だったと『絵本太閤記』には書かれています。

今でも、神通川の辺りには、風雨の夜は女の首と鬼火が出るという話があり、「ぶらり火」と呼ばれています。そして、そこには早百合が吊されたと言われる一本榎があり(戦争で焼けてしまったため、現在は二代目)、この伝説をより信憑性の強いものにしたようです。また、『絵本太閤記』では、天正16年に成政が尼崎で切腹したのも、早百合の怨恨のためであると語っています。

なお、この伝説は成政が越中を去った後、前田家がより国を治めやすくするための作り話である可能性が強いと考えられています。

埋蔵金伝説

「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」

この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌です。
佐々成政はおびただしい軍用金を立山の山中に埋蔵した、と言われています。
越中の伝説によると、成政がさらさら越えをした際に、途中長く苦しい旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中には軍用金も含まれていたというのです。

場所については現在の内蔵介平ではないかという説がありますが、この里歌にもあるように鍬崎山との説もあります。他にも、針の木峠付近説や九州説もあります。
しかし、様々な文献から考えてやはり鍬崎山が有力ではないかと言われています。

富山県大山町では毎年、この埋蔵金伝説にちなんだお祭りを開催しています。
遊園地の中の緩やかな山地を使って、埋蔵金探しをするのです。もちろん、本当の埋蔵金を探すのではなく、あらかじめ紙で作られた小判を土半分くらい埋め、それを探すのです。
小判を見つけると、それは地元の商店街で使用できる商品券やおかし、金一封などに変わります。ただ、探すのも楽ではないです。なにせ夏の暑い盛り、しかも丘陵ですから。
けれど、とても楽しいお祭りです。地元の方に、佐々成政についての話を伺うこともできました。それにこうしたイベントによって、佐々成政という一人の人間が語り継がれていくことはとても良いことだと思います。
※現在は会場が上滝公園に変わっているため、内容も一部変更になっている可能性があります

信長への諫言

天正2年元旦。織田信長は功臣を集めた宴の席で「珍奇の肴」を披露しました。
それは数年に渡って煮え湯を飲まされてきた朝倉義景・浅井久政・長政父子3人の首に薄濃(はくだみ)を施した盃でした。
宴が終わって諸将は退出していきましたが、成政はその場に残り、信長に次のように述べたといいます。

「古書によれば、王者は四海をもって家となし、兆民をもって子となすとあります。
誰か一人でもあなたに服しない者がありましたら、あなたの徳がいまだ至らないことを知るべきです。どうか、不善を反省し、今以上の徳を有してください。」
(「古書に云く王者四海を以て家となし億兆を子と為す、然り而して一夫服せざる者あれば徳化あまねく浴からざるを知るべし請う不善を省み以て徳誼を有せ」『後漢書』)

信長はそのとおりであると大いに喜び、成政を寝室へと引き入れ、政務を論じ合ったそうです。
勘気が強いと言われる信長に諫言すれば、下手をしたら成敗されかねません。
それでも成政は主君が人の道を外すのを見過ごすことはできなかったのではないでしょうか。

成政と学問

佐々成政は『後漢書』をはじめとする古書に精通した博学の人であったといいます。
(信長への諫言も後漢書から引用していますね)

成政が師事していたのは、尾張比良城の客分であった千田吟風という学者で、彼から古今の名将の武功や言行、兵法など幅広く学んでいたといいます。

ある日、成政は学問をさぼり遊び耽っていました。それを見た吟風は、古の名将の話をして真面目に学ぶようにと諭しました。
しかし成政は、「そのようなことが本当にあったのか疑わしい」と口答えをしました。それを聞いた吟風は怒りもせず、こう言いました。

「古将の言行に疑いをもつのなら、なぜ、自らの無益な遊びにも疑いをもたないのか」

その言葉に成政は反省し、以後、真面目に学問に取り組むようになったといいます。

黒百合伝説

『絵本太閤記』によると、佐々成政が切腹させられたのは、黒百合をめぐる秀吉の正室・寧々と側室・淀の諍いに巻き込まれたためとされています。
そしてその黒百合こそは、成政に成敗された彼の側室・早百合の化身であったと少し恐い話になっています。

秀吉に降伏し、大阪城に出仕する身となった成政でしたが、秀吉の正室・寧々の推挙もあって肥後国主となりました。成政はお礼として、加賀の白山大汝峰(2,684メートル)の南方、千蛇ヶ池に咲く黒百合を寧々に献上することにしました。黒百合は、黒く可憐で、珍しい花だったそうです。

喜んだ寧々は、側室である淀に見せて自慢しようと考えました。
そこで、さっそく茶会を催し、その席で黒百合を披露することに決め、千利休の娘・綾に花を活けさせました。
茶会当日、寧々は得意げに銀の花入れに活けた黒百合を披露し、淀もそれをほめそやしました。

しかし、その三日後。
淀は竹筒に、ツツジなどの卑しい花に混ぜて、黒百合を活け捨てにしたのです。しかも、黒百合は寧々のものよりも色が濃く、活き活きとしたものでした。
実は、どこから漏れたのか淀は黒百合の話を知ると、負けじと使者に命じて黒百合をどっさりと取り寄せていたのです。

激しい屈辱を受けた寧々は、花をくれた成政を憎み、それを活けた綾を疑い、秀吉に様々な告げ口をしました。
そしてそれにより、成政は切腹に追い込まれたのだというのです。(綾の父である千利休も切腹しています)

ただ、「早百合伝説」がフィクションである可能性が高いと考えられている現在、一連の事件が早百合の怨念が引き起こしたとは考えにくいと思います。


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