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佐々成政について

image天文五年(1536)、佐々成政は佐々成宗(盛政)の第五子として尾張比良城に生まれました。
織田家に仕える父や兄に倣い、成政も14歳で織田信長の小姓となります。
その後、相次ぐ合戦で二人の兄が討ち死したため、成政が家督を継ぎ、比良城主となりました。成政25歳の時でした。

その後、天正三年(1575)に府中上二郡が与えられるまで、成政は信長の身近に仕えます。
信長の親衛隊である黒毋衣組(くろほろぐみ)の筆頭にも選ばれており、信長の信頼厚かったようです。
また早くから佐々鉄砲隊を率いており、武田軍を破った長篠の戦では鉄砲奉行として活躍しました。

image天正八年(1580)、小丸城築城の最中、信長の義弟である神保長住の助成を命じられ、成政は越中に入国します。
越後の上杉景勝が越中に向けて出陣したという知らせを受けてのことでした。
しかし長雨による河川の氾濫で上杉軍は越後へと引き返してしまいます。とはいえ、また攻めてくるに違いなく、成政は越中に留まります。そして戦への備えと共に、治水事業に専念しました。
記録によると、当時、富山城下は浸水し、家屋・人馬ともに相当の被害を受けたようです。
その時に築造された堤防(霞堤)は、佐々堤と呼ばれ、現在も一部残っています。

上杉軍や国人(国衆)との戦を経て、成政は名実ともに越中の支配者となりますが、天正十年(1582)本能寺の変で信長が倒れたのを機に主家である織田家をめぐる情勢が刻々と変わっていきました。
その筆頭が羽柴秀吉と柴田勝家の対立です。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が自害に追い込まれると、勝家側についていた成政は秀吉に降伏、娘を人質として渡し、越中一国も安堵されました。しかし、成政が主君と仰ぐ信長の遺児・織田信雄と秀吉の間にも対立が深まっていきました。(秀吉はまだ幼い信長の嫡孫の後見人として権力を奮い、信雄をも臣従化させるような振る舞いだったため対立は必然ともいえます)

織田信雄・徳川家康連合軍と秀吉の間で小牧・長久手の戦が始まると、信雄から要請を受けた成政は悩んだ末、信雄に味方することにします。
この決断は、そもそも成政は主筋の織田家を蔑ろにする秀吉に対し反感を抱いていたことや、主君である信雄からの要請を断ることはできなかったためと考えられます。
この小牧・長久手の戦に乗じて成政は秀吉側の将・前田利家が治める能登・加賀へと侵攻しましたが、失敗に終わりました。
また、家康と秀吉の兵が双方睨み合っている間に、信雄は秀吉と和議を結び、大義を失った家康もまた兵を引いてしまうのです。

成政は家康に直接会って再挙を促すことを考えますが、前田、上杉と左右に敵を抱える中、成政が富山城不在と知られれば攻め込まれるのは目に見えています。無論、敵地を通っていくわけにもいきません。
そこで考えた唯一の方法は、在城していると見せかけて、極秘のうちに真冬の立山を越え、浜松にいる家康に会いに行くことでした。
こうして成政は数人の従者をともなって、厳寒の、雪深い立山を踏破したのです。これが世に言う「さらさら越え」です。
しかし、そんな成政の決死の覚悟にも家康が動くことはありませんでした。

成政は越中に戻り、秀吉に降伏します。
その後、肥後(熊本県)一国を与えられましたが、国人一揆の責任を問われて兵庫県尼崎の法園寺で切腹しました。

享年53歳でした。

(2013/9/18加筆修正)


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