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佐々成政の生涯(詳細)

手筒山・金ヶ崎城攻め

1570(元亀1)年4月20日。
越前の朝倉義景を攻めるべく、3万にも及ぶ織田信長・徳川家康の連合軍は京を出立した。

織田・徳川連合軍は手筒山城に次いで、金ヶ崎城を陥落。
手筒山城攻めでは、佐々成政の佐々鉄砲隊の活躍が目覚しかったという。

しかし、信長の妹・お市の婿であり、同盟を結んでいる近江の浅井長政が離反したことで形勢は一気に逆転、織田・徳川連合軍は撤退を余儀なくされることとなった。

この時、殿軍を務めた木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉)は朝倉軍の攻撃を防ぎつつ全軍撤退に成功させ、「藤吉郎の金ヶ崎退き口」といわれる武功を世に示した。

佐々成政は木下藤吉郎の殿軍に加勢しており、『武功夜話』には次のように書かれている。

「佐々鉄砲隊は尾根伝いに布陣、二段の構え入替り立ち替り越前勢へ向け鉄砲打ち懸け、加屋場口数刻の取合い罷り退き候なり」

つまり、佐々鉄砲隊はこの時すでに鉄砲の二段打ちを使っていた。
鉄砲の三段打ちは「長篠の戦い」における戦法として有名だが、実は手筒山・金ヶ崎城戦にて既に使われていたと考えることができる。




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